ユクスキュルの環世界とオートマトンへの実装

Posted on May 23, 2020

20世紀前半の生物学者・哲学者ユクスキュルはカント観念論の生物学への応用として、生物が生きる世界は、彼ら当人にとっての世界に他ならないという主張を立てた。この「主体的な生態学」は一見突飛に見えるが、例えば「完全にローカルな人工生命モデル」を考える上では非常に重要な提言のように思える。この文章では環世界の考えと背景を概観し、人工生命において「基礎的環世界」を実装しようとした研究例を紹介する。さらには、カント観念論という強大な背景がもたらす科学者にとっての受け入れがたさを、環世界をベルクソンの認識論のもとで捉え直すことによって解消できないか模索する。

ユクスキュル『生物から見た世界』について

著者

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864 ~ 1944 ) エストニア出身の生物学者・哲学者

出版年

1934年

概要

個々の生物は客観的・普遍的な「環境」に生きているのではなく、その知覚と作用の文脈で語られる空間・時間を閉じた世界として持っている、と主張。

主体が知覚するものはすべてその知覚世界になり、作用するものはすべてその作用世界になるからである。知覚世界と作用世界が連れ立って環世界というひとつの完結した全体を作りあげているのだ。 ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫pp7

  • 知覚標識:知覚世界における客体の表象
  • 作用標識:作用世界における作用の結果、知覚標識に与えられる変化
  • 環世界:知覚世界と作用世界の和集合。「生物から見た世界」。

主体は以下のループで包まれた世界に生きている

1 主体が客体を知覚する (Perception) 2 知覚が主体の内的状態で処理される 3 主体が客体に作用する (Action) 4 作用標識が知覚標識を打ち消す 5 客体が知覚世界から消える

例えば下図はどれも同じ「部屋」であるが、人、犬、蝿では知覚空間・作用空間が異なるため、異なった空間となる。

ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別することができるといって良いだろう。 ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫pp94

人、犬、蝿にとっての部屋。各主体の(興味に基づいた)認識している分類ごとに色分けしてある。犬、蝿については行動観察に基づく。

環世界とカント観念論

『生物から見た世界』におけるカント言及

生きた主体なしには空間も時間もありえないのである。これによって生物学はカントの学説と決定的な関係をもつことになった。生物学は環世界説で主体の決定的な役割を強調することによって、カントの学説を自然科学的に活用しようとするものである。

ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫pp24

カント観念論

(経験の)諸対象は、直感における多様なものを我々がア・プリオリな(=先天的な)綜合的認識として有する綜合の諸規則に従って統一する過程において生み出されれる。

カント『純粋理性批判』鈴木文孝『カントとその先行者たちの哲学』以文社pp195の引用(著者訳)

カントが先天的な認識・経験の形式である「超越論的主観性」を道具に打ち立てた、認識者が認識によって世界を構成している――「もの自体」は主体の側で構成される――とされる観念論。ユクスキュルは「超越論的主体性」を「機能環」と読み替えることで、これを生態学に導入しようとした。つまり、先天的な(ということは生物間の系統的・生態的「親しさ」と関係をもつ)知覚・作用の形式として機能環を仮設し、生物個体が主体として持つ環世界を軸に生態学を立ち上げなおそうとしたといえる。

情報理論をもとにしたオートマトンへの実装

Constructing the Basic Umwelt of Artificial Agents: An Information-Theoretic Approach

Capdepuy P., Polani D., Nehaniv C.L. (2007) Advances in Artificial Life. ECAL 2007. Lecture Notes in Computer Science, vol 4648. Springer, Berlin, Heidelberg PDF

大目標

完全にローカルな意識をもつ人工生命を実装したい。 イベントの意味解釈がいかなる仕方であってもグローバルに(人の手によって)与えられてはならない。 通常の進化シミュレーションでは、fitness functionを、(グローバルを知っている)人間が設定し、さらにパラメータをチューニングする必要が(現実問題として)ある。この作業の正当性はせいぜい現実の生物システムとかを持ち出した説明によって示される程度である。 ローカルなシステムでも、エージェントの抽象化された特性はローカルでない。 もっと抽象的で一般化可能で(すなわち個々の状況を想定することなく実装できる)指標はないか? 実際の生き物のように複雑な目的を持っているかのように見えるエージェントをローカルなエージェントの進化で作り出すのは難しいから、「基礎的」な環世界の住人を考える。

目的

機能環(Perception-Action Loop)の中で、未来の知覚への自分の作用の決定力を最大化しようとする(将来の出来事を自己のアンダーコントロールに置こうと努力する)エージェントを作る。 決められた可能な行動、知覚能力、情報処理能力、グローバル環境の中で、過去から現在における知覚を元に、将来の知覚への影響を最大化する行動を選択することが目標。 この指標として、自身の作用から将来の知覚への因果を情報伝達の経路(通話路)として捉え、その通話路の通話路容量を用いる、情報理論的な方法を開発した。

機能環はベイジアンネットワークで表現される

Perception-Action Loopの展開図

Empowerment

過去から現在までの作用の積み重ねを送信者、 1タイムステップ後の知覚を受信者とする通話路を考える。 その通話路容量を、「将来に対する影響力」としてfitnessにする。

Context dependent empowerment

内部状態と直近の知覚をcontextとし、empowermentを定義する

これが「基礎的環世界」を生きる住人である。 Perception-Action Loopを展開するとこのようになっている

オートマトンによる実験

実験条件

結果

十分長い時間進化させたエージェントの環世界を可視化するとこのようになる。 グリッドの各位置において、エージェントの内部状態ごとの頻度

State1、2では、上下の壁を認識している State4、5では「壁に隣接したマス」を認識している State0、3では「左右の壁か、あるいは中央」を認識しているが、どうしてこうなったのかはわからない。恐らく進化が局所解で止まったのだろう。

考察と結論

Empowermentは、具体的な状況やその正当性を考慮したfitness functionを用いないAgent Based Modelingを可能にし、便利である。さらに、個別具体的な複数のfitness functionから、単一のempowermentへとfitnessを変えることで、fitness landscapeがなめらかに(一山型に近く?)なり、進化が速くなることが予想される。

では、生存、捕食や逃避といった具体的なゴールにEmpowermentからたどり着けるのか? -> 内部状態の取りうるパターンを複雑にすれば、ホメオスタシスのような基礎的な能力は少なくとも、獲得できるだろう。

内部状態をより複雑化し、知覚情報を抽象化する能力(e.g. 壁の右隣、左隣…を壁の隣+方向(座標軸の回転)という情報に抽象化する)を獲得させることが今後の課題。

所感

可能的行為の最大化を目標とした知覚と情報処理能力の進化、というのがベルクソンの認識論と完全に重なっていて面白い。 今回の実験では、内部状態はいくつかの取りうる値から確率的に選び出されていたが、各状態をニューラルネットにしてしまい、個体の生存期間中にニューラルネットが学習できるようにすると面白そうだと思った。

環世界の非科学性と拡張ベルクソン主義による超克

生きた主体なしには空間も時間もありえないのである。これによって生物学はカントの学説と決定的な関係をもつことになった。生物学は環世界説で主体の決定的な役割を強調することによって、カントの学説を自然科学的に活用しようとするものである。

ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫pp24

グローバルな世界での機械的な物理法則を軸に置く科学と、主体たる生物によって初めて空間や時間といった基礎的な観念すら生じるとするユクスキュルの主張は、あまり相性がいいとは言えず、ユクスキュルは長い間在野の研究者として活動していた。 実際、ユクスキュルの主張は突飛に見える。 カント観念論の批判者であり、同時に唯物論への批判者でもあるフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは物質世界と認識世界が同時に成立可能な仕組みについて著述した著書『物質と記憶』の中で以下のように述べている。

「この(物理現象というグローバルな法則に支配された自然の)秩序を再び立てられるようになるには、…カント風に言えば、少なくとも感性と悟性のあいだに、何かわからない予定調和を想定するしかないだろう」

ベルクソン『物質と記憶』講談社学術文庫pp36

ところで、ユクスキュルの環世界や今回取り上げたオートマトンは図らずしてか、ベルクソンの認識論にむしろ親和性が高いように思える。 知覚能力と作用能力が二人三脚で生物の機能を可能にしているとする環世界の考え方は、物理的因果に満ちた(グローバルな)世界から、自己の行為にとって有益なものだけを取り出し、流れ去ってしまわないように留めるのが生物の知覚だとするベルクソンの認識論と重なってくる。

知覚するということは、対象の総体から、それらに対する私の身体の可能的行為を浮かび上がらせるということなのだ。となれば、知覚とは選別でしかない。

ベルクソン『物質と記憶』 講談社学術文庫pp330

論文でも情報処理能力が上がればより複雑な(「目的のある」)行動をすることができるようになり、未来に対する自分の決定力が増すだろう、と述べられていたが、ベルクソンも同じことを言っている。

神経系が発達するのに応じて、空間内のいっそう多くの、またいっそう遠くの点が、ますます複雑化する運動機構に関係づけられていく。…この知覚がますます豊かさを増すこと自体、ただ単に、諸事物に対する振る舞いにおいて生物の側の選択に委ねられる非決定分が増えることだけを表しているはずではないか。

ベルクソン『物質と記憶』講談社学術文庫pp40

記憶についてのベルクソンの記述は、論文中の機能環のベイジアンネットーワークにおいて、時間tの内部状態Mtがどれだけ過去のActionやPerceptionを汲み取れるか――おそらくこれが長いほど将来を先読みすることができるだろう――がエージェントのEmpowermentに与えるであろう影響を示唆している。

記憶力がそれら(持続の多数)の瞬間を一つの瞬間に凝縮できるようになるのに比例して、記憶力が与えてくれる物質への影響力も、いっそう堅固なものになる。したがって、ある生物の記憶力が第一に示しているのは、事物に対してその生物が持つ行為能力の度合いなのである。記憶力はこの行為能力の、知性における反響にすぎないのだ。

ベルクソン『物質と記憶』講談社学術文庫pp329

本の紹介

拡張ベルクソン主義シリーズ第一弾。みんな大好き郡司ペギオさんも登場。

なんかこれも近い話をしている気がする。西田哲学難しい。(この本は読みやすい)

参考文献

オートマトンについて

Constructing the Basic Umwelt of Artificial Agents: An Information-Theoretic Approach Capdepuy P., Polani D., Nehaniv C.L. (2007) Advances in Artificial Life. ECAL 2007. Lecture Notes in Computer Science, vol 4648. Springer, Berlin, Heidelberg

環世界について

  • ユクスキュル・クリサート『生物から見た世界』 日高敏隆・羽田節子訳 岩波文庫 660円 おすすめ。読みやすいし薄い。

情報理論について

  • 甘利俊一『情報理論』 ちくま学芸文庫 1300円 基礎的な内容についてわかりやすく書かれている。

ベルクソンについて

  • ベルクソン『物質と記憶』 杉山直樹訳 講談社学術文庫 1330円 名著。訳が良い。難しいけど読める。認識論・時間論に興味のある人は是非。

カントについて

  • 鈴木文孝『カントとその先行者たちの哲学』 以文社 2700円 あまり勧めない。 (ちくま新書の『カント入門』がいいらしい)